HISTORY
ホーム >  エラステックの歴史

エラステックの歴史

History of ELASTEC

創業者のエラステック株式会社 永見善之(ながみよしゆき) 初代社長は、明治30年1897年に島根県鹿足郡津和野町(かのあしぐんつわのちょう)に生まれました。

創業家である永見家は山口県の発祥です。

永見善之社長は若い頃数々の大臣を歴任した「海運王」内田信也先生のもとで書生をしながら冶金学を学んだのです。

昭和14年7月21日、愛知県名古屋市中川区二女子町で大日本切断砥石製造所設立、わずか100平方メートルの敷地に、攪拌機1基、プレス2台、窯1基、旋盤2台、ボール盤1台、ターレット1台、これが我がエラステックの芽ばえでした。小さいながらも“モットー”は、現在も社是としている“最高の品質”“最善の努力”“最良の協調”であり、目標は“日本一の「エラス」といしメーカー”です。昭和17年、エラステックは陸海軍管理工場に指定され、学徒動員の折は20数名の学徒が作業に従事しました。当時の従業員は25名ほど。戦時態勢下で労働条件の良くない時でしたが、一丸となりガムシャラに生産に励んだものです。しかし物資の配給不足には、ほとほと困り果てました。

昭和19年には敵機の空襲が激しくなり、警報が発令されると防空壕に避難。その時の当社の防空壕は実に頑丈(がんじょう)なもので軍関係者が見ても驚く程完備していました。空襲は増々激しくなり戦争に負けるものとは思わず従業員はただただ生産に励んだのです。

昭和20年5月17日夜、B29の大編隊が日比野(ひびの)一面に無数の焼夷弾(しょういだん)を投下、社長宅は全焼し付近一帯は焼野原、実に、みじめなものでした。
幸い生産設備は無事だったので、8月15日敗戦を発表されるまで増産に励みました。
終戦と同時に全国工業会は操業を停止、当社も従業員5名ほどを残して全員解散です。

昭和22年「名古屋エラスチック製砥」として「株式会社」に組織変更。切断砥石の生産を始めました。

昭和25年朝鮮戦争勃発、神武(じんむ)景気の波に乗り好況の様相を呈し、エラステックの売上も上々です。

昭和30年頃、業界の不況は深刻になり、当社も初めて不況を味わいました。

しかし、2年位前から研究を続けていた補強材入切断砥石やオフセット砥石が新製品として成功を収めたので、何とか、その苦境を乗切れたのです。

工場誘致で面積1万6千坪、名古屋工場の20倍近くの敷地に当社千年の計を託す工場群の建設に踏切ったのは昭和37年。

工事は昭和42年まで行われ、事務所、研究棟、加工所、社宅、寮、食堂と建物面積は、2千坪を超え、名古屋工場の設備も逐次移設されて生産部の一体化が進められました。

昭和44年には創業三十周年記念式典が執行われました。当日は、米国の宇宙船アポロ11号が日本時間の朝5時14分月面の「静かな海」に着陸。続いて午後3時21分アームストロング船長が月への第一歩を印す予定であるとの特別ニュースが放送され、全世界の人類が歓声を上げ興奮して迎えた、実に記念すべき日になったのです。

初代社長の銅像は豊田市在住の二科展審査員、安藤菊男氏の作にかかり、碑銘は時の首相、自由民主党総裁でノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作氏が揮毫(きごう)。碑文は当時の名古屋市長杉戸清氏から寄せられました。

永見善之社長自身の筆になる座右の銘「今日も亦一歩前進」も刻まれております。

創業三十周年記念行事は岡崎工場の式典場から岡崎勤労会館での家族を含む従業員慰安大会へと移行されました。第一部の出演者は名古屋大須演芸場出演中の既にテレビ等でお馴染みの人気者揃いであること、さらに第二部の抽選は一等賞をビクター12吋テレビとして、空クジなしの豪華版であったので、大いに人気を呼び、来館者は700名近くにもなって大盛会でした。

昭和44年11月3日、永見善之初代社長が勲五等双光旭日章(そうこうきょくじつしょう)を受章。初代社長は賞に縁の多い方で紺綬褒章(こんじゅほうしょう)も受章されました。そのほか、産業功労者として通産省から、労働安全に尽くした功績に対して労働省から、数度にわたり表彰を受けていらっしゃいます。

昭和47年11月24日、永見善之社長は会長に、現会長の永見初代好識副社長が第二代社長に、それぞれ就任されました。

12月9日、名古屋国際ホテルにおいて、就任披露のパーティーが催され、盛況を極めました。

昭和50年、耐火レンガ加工用や石材のダイヤモンドホイール開発に成功した我社は、その販売を開始しました。

昭和50年から研究を重ねてきたCBNホイールも遂に昭和57年、開発に成功。ダイヤモンドは炭素から出来ているために、熱が加わると酸化して劣化し易い欠点があります。それに対しCBNの化学的な安定性は精密研削分野での市場開拓にもってこいなのです。

昭和58年3月19日午後零時27分、永見善之初代会長のご逝去。昭和58年4月7日、西別院(西本願寺)にて永見会長の社葬が執行われました。

ここで永見善之会長語録をご紹介しましょう。
(1) 『今日も亦、一歩前進』
(2) 『日に新、日々に新に、また日に新なり』
(3) 『憂きことの、なおこの上に積もれかし、限りある身の力のためさん』
(4) 『東京へ行こうと思ったら先ず東へ向け、そして一歩を踏み出せ。東京へ行こうという時に大阪の方を向いていては何にもならないじゃないか。』
(5) 『いつまでもあると思うな親と金、ないと思うな運と災難』

直径1250ミリの超大型超高速切断ホイールを、わが国で初めて開発に成功したのは、昭和59年のことです。

永見初代好識会長は、初代社長の命を受け、当時必ずしも基盤強固でなかったエラステックを支えるために、早稲田大学法学部卒業を断念し、東京から押取刀(おっとりがたな)で名古屋へ舞戻って技術者として新たな歩みを始められました。常に現場、常に従業員と共にあるという姿勢には頭が下がるという方は今でも数多くいらっしゃいます。

創業時、会長はよく従業員を家庭に招かれました。食事会や麻雀大会で家族同様のコミュニケーションをしていただいた従業員も大勢います。現社長は、お宅の畳や絨毯が従業員の吸ったタバコの火であけられた穴だらけだったのを思い出して、「さぞかし大変だったでしょうに、一言も愚痴をこぼさず皆さんのお世話を喜んでしていた母の姿を思い出します。」と仰います。

昭和63年、会社一途に打ち込んでこられた会長は、大病に倒れられました。名実ともにエラステックに命を懸けた人生と申し上げても良いでしょう。虚飾の嫌いな会長は、受賞などを一切辞退なさって生涯無冠を貫き通されたので、いつも表彰台に登られたのは初代社長でしたが、実のところ、エラステックのものづくりの技術的、生産的基盤は現会長が心身を賭して従業員と一緒に創り上げてきたものなのです。

平成3年10月2日 創立50周年を迎えたのを機に、名古屋エラスチック製砥株式会社から、エラステック株式会社へ社名変更致しました。「名古屋」が取れてよりグローバルに、「製砥」が取れて“切る・削る・磨く”テクノロジーのサプライヤーに、エラステックの挑戦は続きます。

平成4年12月永見初代好識社長が第二代会長に、永見二代好識副社長が第三代社長に就任。

写真は永見好識第三代社長が経済特別区視察訪中団の団長を務められた時のものです。

新世紀を迎えるにあたり、平成11年6月、超重研削ホイールの成形ラインが完成。平成12年3月には工場第4棟を新築して生産ラインの大幅な合理化を実現させました。現会長の工場構想を締括り、初代社長の夢を叶うべく、本社社屋に着工。平成13年9月29日、創業60期記念事業の一環として初代社長銅像前に新事務所の完成をみました。新社屋を一言で表すならば「IT対応型インテリジェントオフィス」。新社屋は建坪にして500坪の鉄骨2階建です。シルバーでシャープな外観、木目と緑を基調に石の質感を生かした安らぎのある室内。全体にシンプルなトーンに統一した、ものづくりの会社に相応(ふさわ)しい造りになっております。

平成26年7月にエラステック・コンプレックスが完成しました。会議室や倉庫などの施設に加え、従業員食堂や更衣室などの福利厚生施設を備えた複合施設となっています。

昭和14年、日本最初のレジノイド研削ホイール専業メーカーとして名古屋で産声を上げて以来、着実に研鑚を積み、革新的な技術を数多く開発、独自のノウハウを蓄えて参りました。創業から日本の基幹産業を支えているという自負のもとに、更なる飛躍を遂げ、社会に貢献すべく日々邁進しております。